後編は、90年代半ばからのプロデュースワーク、またビジネスマンとしての側面について話を聞く。
気になる2019年以降の展開についても。(《前編》はこちら)
聞き手:岡田育
岡田育とジョー・リノイエ
プロデュース業の幕開け
そうだね、自分たちを素材として使いながら、作詞、作曲、編曲、コーラスにブラス、あれもできる、これもできる、と職人的な腕前を披露している。あんなふうにバリエーションのある音楽、当時作っている人たちは他にあんまりいなかったよね。これは、やっぱり自社スタジオの存在が大きい。遊びじゃない、プロ仕様の本格的なレコーディングスタジオを作って、そこに籠もって一人でしっかり曲が書ける環境が整ったからね。本拠地を手に入れて、それまでとは違う、新しい制作体勢に入ったわけだよ。
俺は昔からずっとコマーシャルの世界で仕事をしてきたから、いろいろな各時代の音楽のエッセンスを抽出して、15秒、30秒といった短い尺に凝縮する手法が好きだし、得意なんだ。収録当日だけクライアント企業の人間が見学に来て、スタジオで映像に合わせて音を聞かせて、背後からOKが出たら、即日終わり。若い頃はそうやって短いものをサクサク量産するのが楽しかった。ギャラも高いしね。
でも、CM曲は基本的にノンクレジットで買い切りだし、人々の記憶に残ることはあっても、記録には残らない。フルサイズのシングル曲を書く仕事の比率を意識的に増やしていったのは、歴史に埋もれて消えていくものだけでなく、クレジットや印税とともに作品の全責任を負う、実績が伴う仕事もしたいな、と考えたから。自分自身が人前に立たずとも、世に出した後まで丸ごとケアできるような仕事がしたいな、と。そのほうが長期的にはビジネスとして安定するしね。時代の流れに対して「今までやってきたことが認められるぞ」という実感があった。そうしてアーティストプロデュースのほうへギアをシフトしていったわけだ。
まずは、平井堅の1stアルバム『un-balanced』かな。当時の俺のサウンドコンセプトが凝縮されている。海外のミュージシャンを日本に呼んでレコーディングするとか、24トラックアナログリールを持って行って現地でブラスを録音するとか、20代の頃にアメリカで築いたコネクションが、ようやく活かされたね(笑)。音楽性がまるで違うところでいうと、音楽番組『BreakOut』出身のLastierもそうだね。アルバムまるごと手がけたものでは、聖飢魔IIの『MOVE』もある。単発だと、石井明美の「バラード」は、いい曲に仕上がったなぁ、屈指の出来栄え、自分でも好きだね。
90年代後半からのプロデュースワークは、俺と鈴川とマニュピレーター、各々が得意な分野を任せてスタジオで録る、という流れがあった。名前こそついてないけど、一個のチームみたいなものだったね。鈴木雅之さんとの仕事なんかは、先方から「ジョーさんのコーラス、鈴川さんのギターをバコッと入れてくれ」と明確なリクエストがあった。同じような方向性で、「記憶」と「記録」の両面で商業的に成功したのが、96年の近藤真彦「ミッドナイト・シャッフル」じゃないかな。THE ALFEEの高見沢俊彦さんが「俺もこういうのやりたかった」と口惜しがっていた、と聞いたのも嬉しかったな。
日本では、ほぼ唯一と言っていいんじゃないかな。歌声をきれいに録るためのボーカルディレクションに加えて、喉や声帯の調子をととのえて、本人が心身共に最高の状態でレコーディングに臨めるようにする、そんな役割。海外では、たとえばミック・ジャガーのような大御所ロックシンガーにだって、ついているものなんだよ。楽曲にはまったくタッチせず、ボーカルのケアだけしたのは、KATSUMI『SUPER BALANCE』とかね。トータルプロデュースは武部聡志さんで、ボーカルプロデュースだけをうちのスタジオで担当した。
でも俺自身、英語圏で学んできたものだから、じつは「日本語を歌う」ってことを、それまであんまり意識していなかったんだよね。鼻濁音の歌唱法とかさ。だから初期に歌ったものは、日本語詞の発音がちょっとカタコトっぽい(笑)。今は正されましたけどね。メロディーともしっくりくるように、日本語で美しく歌う方法を自分でちゃんと研究し始めたのは、じつは90年代前半から。プロデュース業に移行してからは、書ける機会にはなるべく自分で日本語詞も書くようになった。もともと自分で歌詞を書くことにさほど興味はなかった。まぁ、ライブで忘れちゃうくらいだからさ(笑)。でも結局のところ、トータルプロデュースの楽曲となると、メロディーへの言葉の乗り方まで、自分で見て責任取っておいたほうがいいんだよ。
「Synchronized Love」からROmanticModeへ
レオタード姿の武富士ダンサーズが激しく踊るCM、知名度が上がると年々エスカレートして豪華になっていったけど、91年にオンエアされた第1作は、それはもう、ショボい作りでね……申し訳ないけど、早く終わってくんないかなぁ、なんて思っていた(笑)。それがまさか、十数年にわたって放映され続ける、あれほどの人気シリーズになるとはね。自分でも把握しきれないくらいバージョン違いを作ったし、最終的には民法全5社を制覇して、一日に100回200回というスケールでかかっていたはずだよ。
そうそう、体育祭で踊りたいとか、フルサイズはないのか、CDはどこで買えるんだ、といった問い合わせが、企業のほうに殺到したらしくってね。Aメロ、Bメロ、間奏のラップなどなど、慌てて後からくっつけて曲にしたんだよ。俺ね、ユーロビートみたいなこういう四分打ち、得意なんだよねぇ〜。はははは。
今はもう、あの武富士ダンサーズのCMは流れていないけどね。曲は一人歩きして、あちこちのコンピレーション盤やゲームにも収録されて、2019年の春には、登美丘高校ダンス部との新しい企画でSo-netのCMになったしね。もう足掛け30年近く経つ思うと、感慨深いよね。
「それだけしか言えない」は、もともとはドラマ主題歌だったんだけど、こちらも2018年4月から小糸製作所のCMソングとして復活している。曲こそ同じでも、今流れているのはまったく新しく生まれ変わったバージョンなんだよ。これも「バラード」と並んで、自分でもとくに気に入ってる曲だな。今後さらに新録も重ねていく予定だよ。
これも、感覚としてはプロデュースワークに近いよね。D-Projectは「とにかく、自分たちのやりたいことをやる」というコンセプトで統一されていた。RO-Mについては姿勢がまるで違う。麻倉とは91年くらいからの付き合いで、スマッシュヒットした「ベイビーリップス」のカップリング曲とか、「Time Has No Season」とか何曲か仕事した。ここらでもう一花咲かせようや、と企画が盛り上がり、まず「30万枚のヒット曲を出そう」と始めたプロジェクトだったんだよね。一曲目であっという間に目標達成しちゃったんだけど(笑)。デジタルロックだけどダンスビート、これも日本人の大好きな四分打ち、まぁ、売れますよね。
俺と鈴川は、とにかくすっごく忙しかった時期でね。自然と、彼女一人が出稼ぎに行く、という活動形態になったよね。俺たちはスタジオから一歩も離れられないような日々なんだけど、テレビ越しにRO-Mの出演番組をチェックしながら「話し声が低い」「新人っぽく見えない」なんて野次を飛ばしてさ(笑)。日清パワーステーションのワンマンライブも、メンバーなのに、二階の関係者席から観てるだけ。ひどいよな(笑)。
ムーヴリノイエ所属アーティストたち
ROmantic Modeの三名が一緒にステージに揃ったのも、あのライブが初めてだったんだよ。歌ってみて改めて思ったけど、「Resolution」も素晴らしい曲だね。よくできてる。同時期に、高山みなみさん、永野椎菜くんとの、II MIX ⊿ DELTAの活動もあったね。もともとの母体であるTWO-MIXが、麻倉晶と所属事務所が同じで、親交があったというのが縁。ミニアルバムを2枚出した後、98年からは俺が声優マネジメントの会社を持つようになったし、アニメやゲームまわりの仕事が多くなっていった。
『ケンイチ』の主題歌は、矢住夏菜、小池ジョアンナなども歌っているね。ムーヴリノイエ所属アーティストとして、デビュー前からの芸能関連マネジメントまですべて含めた、文字通りの意味での「トータル」プロデュースをした新世代アーティストとしては、矢住夏菜と、あとは2007年に「君がいる限り」でデビューしたステファニーかな。
いやー、あの頃に頑張って頑張って、力尽きた(笑)。ステファニーはリリースが集中していたし、テレビに出て、ライブもやって、賞も獲って(第49回日本レコード大賞新人賞)、映画『プライド』で満島ひかりとダブル主演したりと、活動が多岐にわたっていたからね。そのすべてをケアして、金の出入りをコントロールしたり、何かトラブルが起きたら火消しに回ったり、すべてのディシジョンメイキングを俺がしていたわけだから。
そりゃあ、親御さんから10代の若いお嬢さんを預かって、うちの子よろしくお願いしますなんて言われて、生き馬の目を抜く芸能界でのすべてを面倒を看るというのは、音楽制作とは全然別のプレッシャーがあって疲れるよ(笑)。森川美穂や麻倉晶なんかと仕事するのとは、全然違うよね。いやー、大変でした。
社長業について
どうなんだろうね。10歳くらいから家業の手伝いをしてたからね。うちの両親はもともと二人とも教師なんだけど、脱サラして横浜エリアで手広く店舗経営を始めた。小学校の頃から、我が家には大晦日の習慣というのがあってね。当時、横浜中華街に店を持っていたんだけど、大晦日の中華街って、山下公園の年越しの汽笛を聴きにいくお客さんで、すっごく混むわけ。それで夕方16時くらいから深夜まで、一階二階合わせて100席近い中華料理屋が超満員。父が弟と手伝いを率いて調理場を切り盛りして、母と俺とは、たった二人で一晩500人以上の接客をこなすんだよ。全部終わって片付けたら明け方の4時くらいにみんなで家へ帰って、そこからぶっ続けで、親子で正月の麻雀大会。もちろん、勝つとお年玉の金額が上がる仕組み(笑)。子供の頃からずっと、そんな暮らしだったからな。
中学高校生くらいのときかな、小遣い稼ぎにアルバイトをしたいと言ったら親父にきつく止められてさ、代わりに、伊勢佐木町のビルに入っていた40坪くらいの喫茶店、オープン間近の工事現場に連れて行かれて、「おまえにここを任せる」って(笑)。10代の学生だから当然フルコミットはできないけどさ、よそで働くくらいなら親の仕事を手伝えって。どこかに、息子たちに継がせたかった気持ちもあったのかな。経営や会計の基礎、売上の集計管理といった毎日の切り盛りだけじゃなく、営業不振の店をうまいこと畳む手筈なんかも、勉強したんだよね。おかげで今も、税理士と話しているときなんか数字がスラスラ出てきて、向こうにびっくりされるくらい(笑)。
いやいや、でも、プロデュースと経営って、じつによく似ているんだよ。そして俺はとても向いていると思う。世の中には金勘定が苦手な芸術家というのも多いけど、子供の頃から当たり前の感覚で、まったく苦に思わない。91年にスタジオを作ったとき、どうせ人を雇わないといけないんだし、工事をしたり機材を導入したりするのにローンも組むしさ、個人事業主で続けるより、有限会社にしてしまったほうがいいだろう、ということで作ったのがムーヴリノイエの原型。
といっても、90年代は、ほとんど社長業めいたことはしなかったよ。何しろ当時は音楽のほうが忙しかった。ドラマを同じクールで民放5社のうち主題歌3つやって、年に50曲作曲して75曲アレンジして、といった激務が続いた90年代後半あたりからかな、ストレスと寝不足とで徐々に視力が落ちて、それで左目が見えなくなったんだ。今も、頑張りすぎると今度は右目まで見えなくなっちゃうから、やりすぎには気をつけているけどね。
だんだん手広く事業をやるようになって、自分の名前を冠した「ムーヴリノイエ」ですべてを受けるには、ちょっと手狭になったんだよね。たとえば、MISIAのヒット曲「You’re Everything」の米国レコーディングエンジニアとスタジオ手配、海外ブッキングなどは我が社でやったんだけれども、音楽制作のプロダクションとして「ジョー・リノイエ」が関わっていたわけじゃないしさ。ちょっとややこしいだろう。いろいろなジャンルの仕事を万華鏡のように受けよう、ということでこの社名をつけて、ムーヴと使い分けるようになったのが最初だな。06年以降は、たまたま声優マネジメントに明るいスタッフが入社したこともあって、声優事務所という形態になって現在に至る。
ファンとの交流、そして、未来へ
そうだね。もともとテック・サイバー系のことが好きだからね。90年代半ば頃、割と早いうちから、俺と、マニュピレーターと一緒に、かなり手作り感あふれる感じで、自分たちで作っていたよ。
俺、もともとそういうの、嫌いじゃないからね。それまではチャンネルがなかっただけ。あと、俺の場合、紙に何か書いたりなんかするより、キーボード打つほうがずっと楽だから。
いやー、あれは聖飢魔II『MOVE』のリリース直後だったから、たぶん悪魔用語じゃないのか(笑)? 山本ケンヤさんが「カニ将軍山本」って呼ばれていたみたいに、「閣下」と「殿」なんだと思うよ。
それはマニアックすぎるだろう(笑)! でも、30周年ライブのときには行き渡らなかった、最新の告知をしっかり掲載していきたいよね。今後も、いろいろな人とライブをやろうという話が進行中。じつは海外からも出演オファーが来ていたりする。28年の沈黙を破って、いきなりライブ本数が増えるかもしれない(笑)。
そうだなあ、俺自身のソロ活動も、ようやく重い腰をあげてやっていこうかな、というところ。まずはリイシューされる「それだけしか言えない」だね。一方で、ムーヴリノイエの傘下では、麻倉あきらをはじめとした講師陣を擁したヴォーカルスクール「VOICE STUDIO MUV」なども本格化しているしね。今までとはまるで違う動きもあるかもしれない。