ジョー・リノイエ、スペシャルロングインタビュー《前編》

ムーヴリノイエ公式サイトのリニューアルオープンを記念した、代表のジョー・リノイエ氏へのインタビュー。アーティスト、プロデューサー、会社経営者という三つの貌を兼ね備え、日本音楽業界で長きにわたるキャリアを築いてきたその半生に迫る。前編は、伝説のバンド「D-Project」の活動を中心に。

聞き手:岡田育


岡田育とジョー・リノイエ

デビュー30周年を超えて

__本日はお時間いただきありがとうございます。サイトリニューアルにあたり、畏れ多くもジョーさんの来し方行く末について伺う機会に恵まれました。さまざまな側面に光を当てていきますが、まずは何よりもバンド「D-Project」、とくに2019年1月18日に東京目黒で開催された30周年記念ライブのお話から始めたいです。かぶりつきで拝見しましたが、奇跡の再結成、夢のような一夜でしたね!

30年以上にわたる俺の音楽家人生の中でも珍しい、本格的なライブだったよね。D-Projectの三人で最初に出たライブは89年、所属レーベル「FITZBEAT」主催の東京武道館だった。91年には富士通テン協賛で東名阪とプロモーションツアーを回った。あとは何度か小さなシークレットライブをやったくらい。ヴォーカルのジョー・リノイエ、ギターの鈴川真樹、ベースの本田達也と、メンバー全員が同じステージに揃ったのは、じつに28年ぶりだね。

__生で動いて演奏するD-Projectの御三方を、この目で見られる日が来ようとは……長年のファンとしても感無量でした。それにしても、なぜ今、復活することになったのでしょうか。

この機を逃したら、もう絶対、二度とやらなくなっちゃうな、と思った。節目節目にライブを通してファンと交流を続けている同世代のミュージシャンもいるんだよ。今回ライブにゲスト出演してくれたデーモン閣下(聖飢魔II)、佐藤竹善(SING LIKE TALKING)なんかも、そうだよね。でも、うちの場合は何もない。あまりにも久しぶりすぎて、告知も十分にできなかったけど……とりあえず僕が音頭を取って、まずはライブをね。

__デーモン閣下、そしてアンコールに飛び入り参加した是永巧一さんとは、FITZBEAT時代のレーベルメイトですよね。年次でいうとREBECCAが一番上、次が聖飢魔II、そしてD-Projectが「末っ子」。会場には当時のプロデューサーだった山本健也氏も駆けつけて、同窓会のような雰囲気でした。佐藤竹善さんとは、去年親しくなったばかりとか?

そう、デビュー時期も近くてファン層も重なっていて、昔から意識し合ってはいたんだけど、面識がないまま約30年経っちゃっていた。会ってみたら意気投合。竹善くんは、俺たちの1stシングル「Sayonara, So Long」にとにかく衝撃を受けたと話していて、今回一緒に歌えたのは楽しかったな。

__本記事のテーマである「三つの貌」の一つ目、アーティストとしてのジョー・リノイエが、久しぶりに一般オーディエンスの前に現れた一夜でしたね。そもそもD-Projectは、どうしてそんなにライブの頻度が少なかったんですか?

一番の理由は、俺が歌詞を覚えられないから。記憶力の問題というよりは、歌っているとき、どうしても歌の表現力や音程に集中しちゃいたくなるんだよね。何なら音楽で言葉を代弁したいくらいで、歌詞のことは極力考えたくないんだよ。「あれ、次のフレーズは何だっけ、ちゃんと覚えてたっけ」と、歌いながら邪念が出てくるのが煩わしい。

__えっ、失礼ながら、たったそれだけのことで?

そうだよー! 昔の日本はちょっと根性論的なところがあったから、持ち歌の歌詞を忘れるなんてプロにあるまじき姿、お客様に失礼だ、となりがちだったんだよね。しょうがないから頑張って覚えていたけど、それでもよく忘れる。つい最近まで何度も同じシチュエーションの夢に魘されていたね。本番当日なのに歌詞が全部飛んじゃって、なんでちゃんと覚えなかったんだ、って後悔する悪夢。
有名なところだと、バーブラ・ストライザンドが1968年【※編注:1967年?】のライブで歌詞を飛ばしちゃって、そのショックとプレッシャーでしばらくステージに立てなくなってしまったという事件がある。彼女は今でもライブ嫌いらしいけど、舞台上で歌詞を表示する補助装置、プロンプターを使って少しずつトラウマを克服できたのだそうだ。バーブラみたいな大御所でも俺と同じなんだ、とだいぶ安心したよね。
欧米では昔から「プロの歌手はエンターテイナー、ステージで観客に感動を与えることが仕事であって、歌詞の丸暗記が仕事なわけじゃない」という考え方が主流。人によっては舞台の前後左右あちこちにカンペを置くとか、あるいは、公演時の契約書にプロンプターの使用を定めているとか。会場全体に歌詞を投影して、お客さんと一緒に歌って盛り上げるライブも増えたよね。最新事情をあれこれ調べているうちに、これなら俺もまたライブに挑戦してみてもいいかもしれない、と思えたんだよ。

__そうして当日設置されたのが、ステージ正面に床置きされた、65インチの超巨大な薄型ディスプレイ。ジョーさん特製プロンプターですね。今までライブ活動が少なかったのは、視力の問題もあるのかなと思っていましたが……。

いや、それはあんまり関係ないね。トレードマークになっているサングラスについては、先天性緑内障に加えて生まれつきの斜視もあるので、ずっと昔からかけている。たしかに96年以降、大好きだったクルマの運転ができなくなるほどガクッと視力が落ちたんだけど、まぁ、日常生活には支障ないしさ。とはいえ、昔はあそこまでの巨大モニターは不要だったから、ああした演奏スタイルをファンの前に晒すというのも、初の試みではあったかな。

__蓋を開けてみると、シークレットゲストのマッチこと近藤真彦さんがジョーさんの取り落としたタオルをサッと紳士的に拾ってくれたり、あるいは盟友・デーモン閣下がさりげなく肩を貸して悪魔的に入退場をエスコートしたりと、周囲のサポートからも仲睦まじさが窺えましたね。ジョーさんと鈴川さんの掛け合いは夫婦漫才みたいで、たまに清水信之さんのツッコミが入って、かたや本田さんは口数少なくニコニコ黙って次の曲を準備していて(笑)。

そう、やればやったで面白くてね。一番のストレスが消えて、気心知れたメンバーと真剣に歌に入り込める。パフォーマンスがすべてだ、と考えられるようになったのが、一番大きいよ。ちゃんと歌詞が視認できるプロンプターさえあれば、ボーカリストとしては無敵! 昔の楽曲を知らない新規ファンからも評判よかったし、今後はもう少し頻繁に、もっと楽しくライブをやっていきたいな、という欲求が芽生えてきたところ。いろいろ新しいセッションやコラボレーションをしてみたいよね。

 
 

人生を決めた米国での青春期

 

                
マイケル・ジャクソンのアルバム「Thriller」のプロデューサー、クインシー・ジョーンズと
__今のようにGoogle検索のない時代、謎に包まれたジョー・リノイエの正体を掴むことは、極めて困難でした。名前からして国籍不明。メディア露出は極端に少なく、素顔はいつもサングラスに覆われている。しかも、日本語・英語・中国語を流暢に歌いこなす5オクターブ超の広音域。世が世なら、非実在のボーカロイドか何かと疑われてもおかしくないですよね。改めて、ご出身とルーツ、生い立ちから教えてください。

姓は「李家」、日本生まれ横浜育ちの、中国系日本人だね。8分の7は中国のあちこちがルーツで、8分の1は名古屋の血が入っている。インターナショナルスクールからアメリカの音楽大学へ進学したから、まぁ、3ヶ国語で歌える。

__公式プロフィールには「4歳の頃からクラシックピアノを習い始めた」とありますが、これはいわゆるお稽古事のようなものですか。

そうだね、自分から音楽に興味を持ったというより、両親の意向だった。最初は幼稚園の先生に習ったものだから、嫌で嫌で……。園庭で友達がワーッと元気よく遊んでるのを見ながら、一人だけ音楽教室でレッスンでしょ、全然やりたくないわけよ。でも、そこからセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジへ進学して、14歳のとき同級生とバンドを始めて、ボーカルも担当して。そうしたら世の中が変わっちゃった。いきなり人気者ですよ(笑)。

__もう、モテるモテる(笑)。目に浮かびますよねえ。当時はどんな音楽をやっていたんですか?

中学生ってギター下手くそじゃん? だいたいフォークあたりから始まるわけ。「なごり雪」歌ったりとかね。だけど、コピーバンドがどうもしっくりこなくて。70年代半ばでちょうどフュージョンなんか流行っていたから、そちらへ行ったり。15、16歳からはもう、セミプロとセッションしていた。楽しかったけど、音楽で食っていくのは難しいだろうとも思っていたよね。親父の知り合いづてに服部克久さんに自作曲を聴いてもらったことがあるんだけど、「今すぐにでも仕事を振れるよ」と太鼓判を捺された一方で、「でも、才能があるからって絶対に成功する世界でもないからなぁ」とも言われて。それで、アメリカの大学を6つ受験したうち、5校までは専攻が医学だった。入試には合格していたけど、ギリギリまで進路を迷ったよね。入学金だ何だと準備が進んでいくなかで、最終的に「やっぱり音楽がやりたい!」と宣言したのは、出発の二週間前だった。悩んでいる時間が長かったせいか、親からもそんなに反対されなかったな。

__そうして入学したのが、6校のうち残り1校、世界屈指の名門・バークリー音楽大学。どんな学生生活でしたか。

ボーカル専攻で、ピアノとのダブルメジャー。学校カリキュラムとは別に、週2回のレッスンでダンテ・パヴォーンに3年間師事していた。エルヴィス・プレスリーやジノ・ヴァネリ、マイケル・ジャクソンなんかを教えていたトレーナーだね。僕は当時、ジノ・ヴァネリの大ファンで、同じ人から発声法を習えることに感激していた。途中からは、ピアノよりサックスのほうが楽しいなと思って独学を始めたりもした。
でもね、大学があるのはボストンで、すっごい寒いわけ。9月に入学した1年生の一学期目、生まれて初めて零下15度の毎日を体験してね。冬休みに日本へ帰省する前、ロサンゼルスに寄った。朝ボストンを発ったときはダウンジャケットにイヤマフ姿だったのに、同じ日の昼過ぎにはLAのプールサイドで水着で寝そべっている。最高じゃん、天国じゃん? 俺、なんであんな寒くて暗いところにいるんだろ? と思って。こうなったら3年で単位を取得して、残り1年はLAに引っ越して過ごそう、と決めて、その通りに実行したんだ。

__バークリーを飛び級で卒業するというのは、大変優秀だったのだと思いますが。でも、動機はかなり不純ですね(笑)。同じ国でもまったく気候が違いますもんね。

一番楽しかった思い出は、その大学4年にあたる1年間だな。22歳の夏休み、東海岸から西海岸まで車で横断5000キロ、日本から遊びに来た弟(李家輝氏・現JPモルガン証券株式会社CEO)と、猫一匹と一緒に、珍道中。途中あちこちで死にそうな思いをしてね。行き着いたLAではひたすらサックスの練習とボクシング、ウエイトトレーニングの毎日だった。一緒に住んでいたルームメイトが元プロボクサーで、彼から習ったらメキメキ上達してさ。四回戦クラスの選手とスパーリングやっても全然大丈夫だったから、緑内障さえなかったら、プロテストには絶対合格する自信があったなぁ。
そうこうするうち、親からの仕送りも途切れ、お金がなくなってね。母方の叔母が同じLAに住んでいて、晩飯とかしょっちゅう彼女のところへ食べに行って、ドギーバッグ(食べ残しを持ち帰る容器)もらって帰るような暮らし。一応は就職活動もして、サンディエゴかどこかの広告代理店、結構いい給料の会社から内定も取ったんだけど、行ったら一生そこで終わるなと思って……。それで日本に帰ったと。

__アメリカでの青春時代、もしかしたら今とはまったく別の人生が拓けていたかもしれなかったんですね。音楽活動を始めたのはLAでと伺いましたが。

学生にできる仕事は限られるから、大学の先生の手伝いとか、ちょっとラジオのジングル作る程度だよ。親しいミュージシャンは外国人ばかりだったし、帰国した時点では、国内業界にまるっきりのノーコネクション。84年の夏に帰国して半年間くらいは、将来どうなるのかわからなかった。初仕事はFMラジオで、歌手のRAJIEの生ライブだったなぁ。ポンちゃん(本田達也)とはその頃からの付き合いだね。85年にはジャズシンガーの大野えりさんのアルバム(『L’EVEIL』)で曲書かせてもらったり。あとは、30周年ライブでもドラムをお願いした椎野恭一くん、彼がやっていたPaPaってバンドと一緒にデモテープ作って、それが「観UNIT」につながっていったんだ。

__1985年6月にCBSソニーから発売された、南佳孝プロデュースのコンピレーション盤『882studio』ですね。「観」のメンバークレジットは、ジョセフ・リノイエ、本田達也と、ギターの唐木裕史。当時満24歳でCDデビュー、順風満帆のスタートと見えます。

最初のうちは、どちらかというとサックスで飯食ってたようなもんだよ。郷ひろみさんのツアーを年間120本くらい回ったりしたね。サックスと、キーボードと、コーラスも。我ながら、オールラウンドで便利なサポートメンバーだ(笑)。それが縁で、のちのち全編英語の「REE」を作詞させてもらったりもした。曲が書ける、英語詞も書ける、アレンジもやる、機材も自分で持ってる、スタジオブッキングから何から何まで全部できるもんだから、やがて代理店から直でCMの仕事をもらうようにもなって……。

__80年代半ば、まずはCM音楽家として売れっ子になったわけですね。

月に5〜6本、年間60〜70本というペースが5〜6年は続いたから、この時期だけで400本から500本はCMを手がけている。自分でも全部は把握しきれていないけど、大きなクライアントはほとんど網羅した。J-WAVEのジングルなんか、ずいぶん多く手がけたね。当時ちょうど別れた恋人が、ラジオからずっと俺の声ばっかり流れてくるのが嫌で東京を離れた、と聞いたけど(笑)。自分でも聴いててこそばゆいくらいだったよ。

 
 

波乱のD-Project結成当初

 


D-Project 1989年
__精力的にコマーシャルの仕事を続けながらも、88年12月にはD-Projectとしてデビューしています。今となってはジョーさんが中心人物という印象が強いですが、じつは発起人は、現在は映画音楽家として活躍されている松本晃彦さんだったそうで。

郷ひろみツアーの最中に、松本晃彦から留守番電話に連絡がきて、「ジョー、バンドやろうよ」って言われたんだよ。大野えりさんプロデュースの時にキーボードで参加してくれた以来の音楽仲間なんだけど、誘われた理由は今も謎のままだね(笑)。鈴川のほうは、EPOさんの現場で松本と知り合っていた。長い長い付き合いになる鈴川真樹と最初に出会ったのは、新宿の喫茶店。今もよく憶えているよ。俺が唐木くんと一緒にいて、鈴川と松本が別の席にいて、ばったり会って四人で挨拶したんだ。それで87年頃、松本と俺と鈴川、という三人編成でデモテープを作った。当時の音源、今もどこかに残っていると思うよ。「Sayonara, So Long」や「Sexy Girl」はもう書かれていたし、世に出ていない未収録曲もあるはず。ところが、松本はやっぱりアレンジャーやりたいって、言い出しっぺのくせにイチ抜けてさ。もうCBSソニーと契約の話は進んじゃってるし、さてどうしよっか、というところで、「観」で一緒にやったポンちゃんに声をかけて、加わってもらったと。

__デビューが決まった後にメンバーチェンジがあったんですか! 誘われた本田さんは二つ返事で?

そうだね、ちょうどスティーブ・フェローンが日本に来ていて、四人でセッションしたらやっぱりプレイが素晴らしいので……それは興奮するよねぇ。デビューシングル「Sayonara, So Long」のPVにも四人で出てるしね。三人編成ではあるけれど、ドラムのスティーブが四人目のメンバーというような売り出し方だった。ちなみにこの曲、ドラムはミッキー・カリーでも録っていて、二つ重ねたのがDouble Drums Versionだね。
キーボードもずいぶん探したんだよ。一度に20人くらいオーディションして該当者なし、なんてこともあった。お昼に一人クビにして、夜にまた一人その場でクビにして……それでロビー・キルゴアに出会って決めた。ホール&オーツやスティーブ・ウィンウッドなんか手がけていたところで、やっぱり発想が素晴らしくてね。D-Projectというバンド名は、俺たち三人を核のABCとして、四つめの要素「D」、ドラムやキーボードやコーラスを、こうやって探し求め続けるプロジェクトだ、との意味が込められているんだよね。

__バンド名の由来、初めて知りました! 1stアルバム『Prototype』は、ニューヨークで2ヶ月かけてレコーディング。発売当時のレビューで、「ここまで緻密な音作りをしておきながら、まだ『原型』と称すとは末恐ろしい」と書かれているのを読んだ記憶があります。

一枚目には、お金かかったよねえ……。一作にウンゼンマン万円とか、今では考えられない金額だ。アルバム10枚くらい作れちゃうよ。他のパートの収録が着々と終わってポンちゃんや鈴川がどんどん夜遊びに繰り出すなか、俺だけ歌録りで最後まで待たされて、ホテルにカンヅメで人恋しくなっちゃってね。日本へ国際電話をかけまくって電話代請求が30万円を超えた(笑)。

__エピソードがどれもこれもバブルっぽい! アルバムの後には「Sexy Girl」のミニアルバムも出ています。歌詞は日本語と英語、さらにアレンジ違いも詰め合わせ。

あの曲を作ったのは、郷ひろみのツアー中だったんだよね。ホテルの部屋で4トラックカセットレコーダーで作ったデモが、一番最初。打ち込みドラムも悪くないよね、というのでそちらがOriginal Mixになったけど、スティーブの生ドラムも録ったから、そちらはシンプルなロック調のRadio Mixにした。「写ルンです」のCMソングで、今もファンの人気が非常に高い曲だね。

__オリジナルはキラキラとポップな「Sexy Girl」ですが、30周年ライブではRadio Mix寄りの生演奏にデーモン閣下とのツインボーカル、同じ曲でもこんなにハードにカッコよく響くんだ、と驚きました。

 
そしてさらにこの曲、中国語バージョンもあるんだよね。国内発売がなかったからあまり知られていないけど、アジア市場向けに、全編マンダリン(北京語)のアルバムも作ったんだよ。「Sexy Girl」「You’re The Gift Of Love」「蒼い月」なんかが収録されている。台湾では数万枚……当時の人口比率でいうと、日本より売れたのかもしれない(笑)。


D-Project 30周年記念ライブでデーモン閣下とSexy Girlを熱唱
__ボーカルがトライリンガルだと、歌詞違いだけでも三パターン作れますもんね。ジョーさん、鈴川さん、本田さん、三者三様の音楽性を、アダルト・オリエンテッドな艶っぽい歌詞が一つにまとめ上げているのも、D-Projectの魅力です。当時「NEO AOR」というジャンル名を付されていましたね。

もともと曲作りの段階では、デモテープは大体すべて英語詞で、かなり洋楽っぽいからね。レコード会社には、原詞のままだと日本国内リスナーに認知されないという懸念があって、それでプロの作詞家さんに外注することになったんだと思う。一枚目は基本的にお任せ。二枚目、三枚目からは、こちらから大枠の方向性を伝えてお願いした。でも、あれが余計に、歌詞覚えが難しいんだよ……。Prototypeは特に関連性なくパズルのように嵌め込まれた日本語が多くて、散文的で、情景を思い浮かべにくくてさ。それが悪いってことはないけど、歌詞覚えのトラウマの大きな要因になっているね(笑)。

 
 

コマーシャルソングの帝王として

 

__私のD-Project初体験は「Sayonara, So Long」で、1992年7月発売の『東京BABYLON イメージ・サウンドトラック』に収録されていたのがきっかけです。このコンピレーション盤、CLAMPの人気漫画を元にソニー所属アーティストから選曲されたもので、他に入っていたのは松岡英明、REBECCA、SUBSONIC FACTORに、坂本龍一やCHARAなど。

はっはっは、順序が逆なんだ。たしか俺も、何とかってキャラクターのモデルになったらしい、と耳にしたことがあるけど。

__桜塚星史郎ですわ! 作中で片眼の視力を喪う、耽美でサディスティックな二重人格者です。で、中学生の私は「このジョーなんとかって、アニメ『ふしぎの海のナディア』の主題歌やってた人じゃないか?」と気がついた。

森川美穂「ブルー・ウォーター」は編曲、「Yes, I will…」は作編曲を、90年発売のアルバム『Vocalization』ではトータルプロデュースを手がけている。あれはLA録音で、ホテルのブッキングまで俺がやったんだよ。そうやって引き続き、自分のバンド活動と並行して、あちこちのアーティストに曲提供していたね。

__同年にD-Projectの2ndアルバム『Tempest』もリリースされていますね。一枚目よりもロック路線、ニューウェイヴ感が強まったような、捨て曲無しの名盤です。ちなみに私がお小遣い貯めて最初に買った新譜は、3rdアルバムの先発シングル「フィルムの途切れたシネマ」でした。これもめちゃくちゃ身勝手な男の歌で……。

花王リーゼのタイアップ曲だね。『Tempest』以降のタイアップはほとんど俺が自分で引っ張ってきたんだよ。「Clear」がJTのスモーキンクリーンキャンペーン、「You’re The Gift Of Love」がトヨタクレスタ……。

__いやいやいや、タイトルを言ってまず顧客企業名で返してくるロックミュージシャン、なかなかいないですよね!? 30周年ライブでも「Come Up!(Morning Flight)」の曲名をど忘れして「セーラムライトの曲」と言っていたし。やっぱり、根っこはCM音楽家なんですなぁ。

実際たくさん作っていたんだから、仕方ないじゃないか!(笑) 当時、音楽雑誌で「コマーシャルソングの歌い手ランキング」といった特集があって、同時並行で7曲ほど歌っていた俺が、上位に載ってたよ。

__CMといえば、私は「君が輝くとき」のインパクトが強いですね。丸大ハムのオリンピック応援曲、全国ネットのCMが大量投下されていました。これらのナンバーを収録した3rdアルバム『Pages』は93年発売。本田さんが脱退して、鈴川さんとの二人編成になっています。

最もお金をかけたのが『Prototype』で、最も時間をかけたのが『Pages』だね。レコード会社との契約がアルバム3枚単位だったから、3枚目はちゃんと結果を残そう、と気合も入ってね。結果として、前代未聞、伝説の「発売延期7回」という記録を樹立してしまったわけだ(笑)。ちょうど91年に自前のスタジオが完成したところで、2年、3年と作り続けていたから、思い入れも強い。
たとえば「Distant Lover」1曲だけで5パターンくらい残ってるんだよ。オケの切れ味とか、エッジが立っててグルーヴィーなのは、やっぱりアルバム版かな。シングル版は全然アレンジが違うよね。今だったらちょっとした操作で簡単に挿げ替えられるけど、当時はそんなふうにできなかったから、気に入らない、と思ったら何度でも全部録り直したんだろうな。こだわりすぎて、時間をかけすぎて、そうやって自分たちの首を締めてしまったようなものだね。
でも、だからこそ、当時のCBSソニーの社長が「セールスはさておき、1993年度の我が社のリリースの中で最高傑作だ」と言ってくれたアルバムでもある。1曲目の「Monday Someday」なんかは、俺にとってもD-Projectの中で一番好きな曲だよ。田口俊さんの詞もいいし、曲もアレンジもよくまとまっていて、完成度が高い。今聴いても、時間をかけた甲斐があったなぁ、と思う。

__リスナーにも「やり尽くした」と伝わってくるアルバムでしたね。最後の曲「Beginning」が大いなる終焉を匂わせる内容で。ところで、小室哲哉がTM NETWORKという三人組ユニットの活動に区切りをつけ、「プロデューサー」という新しい肩書きへと軸足を移したのが、94年春のことです。当時『Pages』を繰り返し聴きながら、「D-Projectも、小室哲哉みたいに転身するのかな?」と考えていましたよ。

ぴんぽーん! 時代の流れ、非常にわかりやすい動きでいいじゃないか。過去には森川美穂みたいなケースもあったけど、本格的にプロデュース業を始めたのは、D-Projectが一段落した94年以降。小室ファミリーの他にはビーイングも台頭してきて、そちらでは桜井ゆみとか、GEARSなんかの仕事をしたね。平井堅のデビュー作プロデュースも、『Pages』を聴いたプロデューサーが持ちかけてきたんだ。90年代半ば、ここからはプロデューサー時代の幕開けだよね。

 

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