聞き手:岡田育
ムーヴリノイエ公式サイトのリニューアルオープンを記念した、代表取締役社長ジョー・リノイエ氏へのインタビュー。アーティスト、プロデューサー、会社経営者という三つの貌を兼ね備え、日本音楽業界で長きにわたるキャリアを築いてきたその半生に迫る。前編は、2018年に結成30周年を迎えたバンド「D-Project」の活動を中心に。後編は、90年代半ばからのプロデュースワーク、またビジネスマンとしての側面について話を聞く。新しい海外展開プロジェクト「Du-Plex」気になる2019年以降の展開についても。
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■企画のなれそめについて
岡田と最初に会ったのは、たしか大学生のときだよな。それよりも昔、高校生のときには、ものすごい熱烈な、分厚いファンレターを送ってきたんだよね。便箋にプリクラとか貼ってあったやつ、どこかにとってあるよ(笑)。それが今や、すっかり立派な大人になって……。
はっはっはっは、あれ、事務所に直に届けに来てたんだー、おまえ相当ヤベエな(笑)。
それから数年後、このムーヴリノイエのホームページに、公式チャットルームを設置したんだよな。ファンが集まって交流できる場を作って、時々は俺も顔を出したりしていてさ。あるとき入室者の名前を見たら、おお、岡田ってあの、ファンレターの子じゃないか! と。懐かしいねえ、まだテレホーダイの時代だよね。
■30周年記念ライブ
30年以上にわたる俺の音楽家人生の中でも珍しい、本格的なライブだったよね。D-Projectの三人で最初に出たライブは89年、所属レーベル「FITZBEAT」主催の東京武道館だった。91年には富士通テン協賛で東名阪とプロモーションツアーを回った。あとは何度か小さなシークレットライブをやったくらい。ヴォーカルのジョー・リノイエ、ギターの鈴川真樹、ベースの本田達也と、メンバー全員が同じステージに揃ったのは、じつに28年ぶりだね。
この機を逃したら、もう絶対、二度とやらなくなっちゃうな、と思った。20周年記念、30周年記念、と節目節目にライブを通してファンと交流を続けている同世代のミュージシャンもいるんだよ。今回ライブにゲスト出演してくれたデーモン閣下(聖飢魔II)、佐藤竹善(SING LIKE TALKING)なんかも、そうだよね。でも、うちの場合は何もない。あまりにも久しぶりすぎて、告知も十分にできなかったけど……。とりあえず僕が音頭を取って、まずはライブをやろうよ、と呼びかけた。
そう、デビュー時期も近くてファン層も重なっていて、昔から意識し合ってはいたんだけど、面識がないまま約30年経っちゃっていた。会ってみたら意気投合。竹善は、俺たちの1stシングル「Sayonara, So Long」にとにかく衝撃を受けたと話していて、今回一緒に歌えたのは楽しかったな。
一番の理由は、俺が歌詞を覚えられないから。記憶力の問題というよりは、歌っているとき、どうしてもメロディーにだけ集中しちゃうんだよね。何なら音楽で言葉を代弁したいくらいで、歌詞のことは極力考えたくないんだよ。「あれ、次のフレーズは何だっけ、ちゃんと覚えてたっけ」と、歌いながら邪念が出てくるのが煩わしい。
そうだよー! 昔の日本はちょっと根性論的なところがあったから、持ち歌の歌詞を忘れるなんてプロにあるまじき姿、お客様に失礼だ、となりがちだったんだよね。しょうがないから頑張って覚えていたけど、それでもよく忘れる。つい最近まで何度も同じシチュエーションの夢に魘されていたね。本番当日なのに歌詞が全部飛んじゃって、なんでちゃんと覚えなかったんだ、って後悔する悪夢。
有名なところだと、バーブラ・ストライザンドが1968年【※編注:1967年?】のライブで歌詞を飛ばしちゃって、そのショックとプレッシャーでしばらくステージに立てなくなってしまったという事件がある。彼女は今でもライブ嫌いらしいけど、舞台上で歌詞を表示する補助装置、プロンプターを使って少しずつトラウマを克服できたのだそうだ。バーブラみたいな大御所でも俺と同じなんだ、とだいぶ安心したよね。
欧米では昔から「プロの歌手はエンターテイナー、ステージで観客に感動を与えることが仕事であって、歌詞の丸暗記が仕事なわけじゃない」という考え方が主流。人によっては舞台の前後左右あちこちにカンペを置くとか、あるいは、公演時の契約書にプロンプターの使用を定めているとか。会場全体に歌詞を投影して、お客さんと一緒に歌って盛り上げるライブも増えたよね。最新事情をあれこれ調べているうちに、これなら俺もまたライブに挑戦してみてもいいかもしれない、と思えたんだよ。
いや、それはあんまり関係ないね。トレードマークになっているサングラスについては、先天性緑内障に加えて生まれつきの斜視もあるので、ずっと昔からかけている。たしかに96年以降、大好きだった自動車の運転ができなくなるほどガクッと視力が落ちたんだけど、まぁ、日常生活には支障ないしさ。とはいえ、昔はあそこまでの巨大モニターは不要だったから、ああした演奏スタイルをファンの前に晒すというのも、初の試みではあったかな。
そう、やればやったで面白くてね。一番のストレスが消えて、気心知れたメンバーと真剣に歌に入り込める。パフォーマンスがすべてだ、と考えられるようになったのが、一番大きいよ。ちゃんと歌詞が視認できるプロンプターさえあれば、ボーカリストとしては無敵! 昔の楽曲を知らない新規ファンからも評判よかったし、今後はもう少し頻繁に、もっと楽しくライブをやっていきたいな、という欲求が芽生えてきたところ。いろいろ新しいセッションやコラボレーションをしてみたいよね。
■生い立ちについて
姓は「李家」、日本生まれ横浜育ちの、中国系日本人だね。8分の7は中国のあちこちがルーツで、8分の1は名古屋の血が入っている。インターナショナルスクールからアメリカの音楽大学へ進学したから、まぁ、3ヶ国語で歌えるわな。
そうだね、自分から音楽に興味を持ったというより、両親の意向だった。最初は幼稚園の先生から習ったものだから、嫌で嫌で……。園庭で友達がワーッと元気よく遊んでるのを見ながら、一人だけ音楽教室でレッスンでしょ、全然やりたくないわけよ。でも、そこからセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジへ進学して、14歳のとき同級生とバンドを始めて、ボーカルに転向して。そうしたら世の中が変わっちゃった。いきなり大スターですよ(笑)。
中学生ってギター下手くそじゃん? だいたいフォークあたりから始まるわけ。「なごり雪」歌ったりとかね。だけど、コピーバンドがどうもしっくりこなくて。70年代半ばでちょうどフュージョンなんか流行っていたから、そちらへ行ったり。15、16歳からはもう、セミプロとセッションしていた。楽しかったけど、音楽で食っていくのは難しいだろうとも思っていたよね。親父の知り合いづてに服部克久さんに自作曲を聴いてもらったことがあるんだけど、「今すぐにでも仕事を振れるよ」と太鼓判を捺された一方で、「でも、才能があるからって絶対に成功する世界でもないからなぁ」とも言われて。それで、アメリカの大学を6つ受験したうち、5校までは専攻が医学だった。入試には合格していたけど、ギリギリまで進路を迷ったよね。入学金だ何だと準備が進んでいくなかで、最終的に「やっぱり音楽がやりたい!」と宣言したのは、出発の二週間前だった。悩んでいる時間が長かったせいか、親からもそんなに反対されなかったな。
ボーカル専攻で、ピアノとのダブルメジャー。学校カリキュラムとは別に、週2回のレッスンでダンテ・パヴォーンに師事していた。エルヴィス・プレスリーやジノ・ヴァネリ、マイケル・ジャクソンなんかを教えていたトレーナーだね。僕は当時、ジノ・ヴァネリの大ファンで、同じ人から発声法を習えることに感激していた。途中からは、ピアノよりサックスのほうが楽しいなと思って独学を始めたりもした。
でもね、大学があるのはボストンで、すっごい寒いわけ。9月に入学した1年生の一学期目、生まれて初めて零下15度の毎日を体験してね。冬休みに日本へ帰省する前、ロサンゼルスに寄った。朝ボストンを発ったときはダウンジャケットにイヤマフ姿だったのに、同じ日の昼過ぎにはLAのプールサイドで水着で寝そべっている。最高じゃん、天国じゃん、俺なんであんな寒くて暗いところにいるんだろ? と思って。こうなったら3年で単位を取得して、残り1年はLAに引っ越して過ごそう、と決めて、その通りに実行したんだ。
一番楽しかった思い出は、その大学4年にあたる1年間だな。23歳の夏休み、東海岸から西海岸まで車で横断5000キロ、日本から遊びに来た弟(李家輝氏・現JPモルガン証券株式会社CEO)と、猫一匹と一緒に、珍道中。途中あちこちで死にそうな思いをしてね。行き着いたLAではひたすらサックスの練習とボクシング、ウエイトトレーニングの毎日だった。一緒に住んでいたルームメイトが元プロボクサーで、彼から習ったらメキメキ上達してさ。四回戦出場選手とスパーリングやっても全然大丈夫だったから、緑内障さえなかったら、プロテストには絶対合格する自信があったなぁ。
そうこうするうち、親からの仕送りも途切れ、お金がなくなってね。母方の叔母が同じLAに住んでいて、晩飯とかしょっちゅう彼女のところへ食べに行って、ドギーバッグ(食べ残しを持ち帰る容器)もらって帰るような暮らし。一応は就職活動もして、サンディエゴかどこかの広告代理店、結構いい給料の会社から内定も取ったんだけど、行ったら一生そこで終わるなと思って……。それで日本に帰ったと。
学生にできる仕事は限られるから、大学の先生の手伝いとか、ちょっとラジオのジングル作る程度だよ。親しいミュージシャンは外国人ばかりだったし、帰国した時点では、国内業界にまるっきりのノーコネクション。84年の夏に帰国して半年間くらいは、将来どうなるのかわからなかった。初仕事はFMラジオで、歌手のRAJIEの生ライブだったなぁ。ポンちゃん(本田達也)とはその頃からの付き合いだね。85年にはジャズシンガーの大野えりさんのアルバム【※『L’EVEIL』?】で曲書かせてもらったり。あとは、30周年ライブでもドラムをお願いした椎野恭一くん、彼がやっていたPaPaってバンドと一緒にデモテープ作って、それが「観UNIT」につながっていったんだ。
最初のうちは、どちらかというとサックスで飯食ってたようなもんだよ。郷ひろみさんのツアーを年間120本くらい回ったりしたね。サックスと、キーボードと、コーラスも。我ながら、オールラウンドで便利なサポートメンバーだ(笑)。それが縁で、全編英語の「REE」を作詞させてもらったりもした。曲が書ける、英語詞も書ける、アレンジもやる、機材も自分で持ってる、スタジオブッキングから何から何まで全部できるもんだから、やがて代理店から直でCMの仕事をもらうようにもなって……。
月に5〜6本、年間60〜70本というペースが5〜6年は続いたから、この時期だけで400本から500本はCMを手がけている。自分でも全部は把握しきれていないけど、大きなクライアントはほとんど網羅した。J-WAVEのジングルなんか、ずいぶん多く手がけたね。当時ちょうど別れた恋人が、ラジオからずっと俺の声ばっかり流れてくるのが嫌で東京を離れた、と聞いたけど(笑)。自分でも聴いててこそばゆいくらいだったよ。
■D-Projectの話(1)
郷ひろみツアーの最中に、松本晃彦から留守番電話に連絡がきて、「ジョー、バンドやろうよ」って言われたんだよ。大野えりさんの仕事で紹介されて面識はあったんだけど、誘われた理由は今も謎のままだね(笑)。鈴川のほうは、EPOさんの現場で松本と知り合っていた。長い長い付き合いになる鈴川真樹と最初に出会ったのは、新宿の喫茶店。今もよく憶えているよ。俺が唐木くんと一緒にいて、鈴川と松本が別の席にいて、ばったり会って四人で挨拶したんだ。それで87年頃、松本と俺と鈴川、という三人編成でデモテープを作った。当時の音源、今もどこかに残っていると思うよ。「Sayonara, So Long」や「Sexy Girl」はもう書かれていたし、世に出ていない未収録曲もあるはず。ところが、松本はやっぱりアレンジャーやりたいって、言い出しっぺのくせにイチ抜けてさ。もうCBSソニーと契約の話は進んじゃってるし、さてどうしよっか、というところで、「観」で一緒にやったポンちゃんに声をかけて、加わってもらったと。
そうだね、ちょうどスティーブ・フェローンが日本に来ていて、四人でセッションしたらやっぱりプレイが素晴らしいので……それは興奮するよねぇ。デビューシングル「Sayonara, So Long」のPVにも四人で出てるしね。三人編成ではあるけれど、ドラムのスティーブが四人目のメンバーというような売り出し方だった。ちなみにこの曲のドラムはミッキー・カリーでも録って、二つ重ねたのがDouble Drums Versionだね。
キーボードもずいぶん探したんだよ。一度に20人くらいオーディションして該当者なし、なんてこともあった。お昼に一人クビにして、夜にまた一人その場でクビにして……それでロビー・キルゴアに出会って決めた。ホール&オーツやスティーブ・ウィンウッドなんか手がけていたところで、やっぱり発想が素晴らしくてね。D-Projectというバンド名は、俺たち三人を核のABCとして、四つめの要素「D」、ドラムやキーボードやコーラスを、こうやって探し求め続けるプロジェクトだ、との意味が込められているんだよね。
一枚目には、お金かかったよねえ……。一作に6500万円とか、今では考えられない金額だ、アルバム10枚くらい作れちゃうよ。ライブでも話したけど、他のパートの収録が着々と終わってポンちゃんや鈴川がどんどん夜遊びに繰り出すなか、俺だけ歌録りで最後まで待たされて、ホテルにカンヅメで人恋しくなっちゃってね。日本へ国際電話をかけまくって電話代請求が30万円を超えた(笑)。
あの曲を作ったのは、郷ひろみのツアー中だったんだよね。ホテルの部屋で4トラック切って作ったデモが、一番最初。打ち込みドラムも悪くないよね、というのでそちらがOriginal Mixになったけど、スティーブの生ドラムも録ったから、そちらはシンプルなロック調のRadio Mixにした。「写ルンです」のCMソングで、今もファンの人気が非常に高い曲だね。
そしてさらにこの曲、中国語バージョンもあるんだよね。国内発売がなかったからあまり知られていないけど、アジア市場向けに、全編マンダリン(北京語)のアルバムも作ったんだよ。「Sexy Girl」「You’re The Gift Of Love」「蒼い月」なんかが収録されている。台湾では数万枚……当時の人口比率でいうと、日本より売れたのかもしれない(笑)。
もともと曲作りの段階では、デモテープは大体すべて英語詞で、かなり洋楽っぽいからな。レコード会社には、原詞のままだと日本国内リスナーに認知されないという懸念があって、それでプロの作詞家さんに外注することになったんだと思う。一枚目は基本的にお任せ。二枚目、三枚目からは、こちらから大枠の方向性を伝えてお願いした。でも、あれが余計に、歌詞覚えが難しいんだよ……。関連性なくパズルのように嵌め込まれた日本語だから、散文的で、情景を思い浮かべにくくてさ。それが悪いってことはないけど、歌詞覚えのトラウマの大きな要因になっているね(笑)。
■D-Projectの話(2)
はっはっは、順序が逆なんだ。たしか俺も、何とかってキャラクターのモデルになったらしい、と耳にしたことがあるけど。
森川美穂の「ブルー・ウォーター」は編曲、「Yes, I will…」は作編曲を、90年発売のアルバム『Vocalization』ではトータルプロデュースを手がけている。あれはLA録音で、ホテルのブッキングまで俺がやったんだよなぁ。そうやって引き続き、自分のバンド活動と並行して、あちこちのアーティストに曲提供していたね。
花王リーゼのタイアップ曲だね。『Tempest』以降のタイアップはほとんど俺が自分で引っ張ってきたんだよ。「Clear」がJTのスモーキンクリーンキャンペーン、「You’re The Gift Of Love」がトヨタクレスタ……。
実際たくさん作っていたんだから、仕方ないじゃないか。当時、音楽雑誌で「コマーシャルソングの歌い手ランキング」といった特集があって、同時並行で7曲ほど歌っていた俺が、一位か二位に載ってたよ。
最もお金をかけたのが『Prototype』で、最も時間をかけたのが『Pages』だね。レコード会社との契約がアルバム3枚単位だったから、3枚目はちゃんと結果を残そう、と気合も入ってね。結果として、前代未聞、伝説の「発売延期7回」という記録を樹立してしまったわけだ(笑)。ちょうど91年に自前のスタジオが完成したところで、2年、3年と作り続けていたから、思い入れも強い。
たとえば「Distant Lover」1曲だけで5パターンくらい残ってるんだよ。オケの切れ味とか、エッジが立っててグルーヴィーなのは、やっぱりアルバム版かな。シングル版は全然アレンジが違うよね。今だったらちょっとした操作で簡単に挿げ替えられるけど、当時はそんなふうにできなかったから、気に入らない、と思ったら何度でも全部録り直したんだろうな。こだわりすぎて、時間をかけすぎて、そうやって自分たちの首を締めてしまったようなものだね。
でも、だからこそ、当時のCBSソニーの社長が「セールスはさておき、1993年度の我が社のリリースの中で最高傑作だ」と言ってくれたアルバムでもある。1曲目の「Monday Someday」なんかは、俺にとってもD-Projectの中で一番好きな曲だよ。田口俊さんの詞もいいし、曲もアレンジもよくまとまっていて、完成度が高い。今聴いても、時間をかけた甲斐があったなぁ、と思う。
ぴんぽーん! 時代の流れ、非常にわかりやすい動きでいいじゃないか。過去には森川美穂みたいなケースもあったけど、本格的にプロデュース業を始めたのは、D-Projectが一段落した94年以降。小室ファミリーの他にはビーイングも台頭してきて、そちらでは桜井ゆみとか、GEARSなんかの仕事をしたね。平井堅のデビュー作プロデュースも、『Pages』を聴いたディレクターが持ちかけてきたんだ。90年代半ば、ここからはプロデューサー時代の幕開けだよね。
■プロデュース業の幕開け
そうだね、自分たちを素材として使いながら、作詞、作曲、編曲、コーラスにブラス、あれもできる、これもできる、と職人的な腕前を披露している。あんなふうにバリエーションのある音楽、当時作っている人たちは他にあんまりいなかったよね。これは、やっぱり自社スタジオの存在が大きい。遊びじゃない、プロ仕様の本格的なレコーディングスタジオを作って、そこに籠もって一人でしっかり曲が書ける環境が整ったからね。本拠地を手に入れて、それまでとは違う、新しい制作体勢に入ったわけだよ。
俺は昔からずっとコマーシャルの世界で仕事をしてきたから、いろいろな新しい音楽のエッセンスを抽出して、15秒、30秒といった短い尺に凝縮する手法が得意なんだ。収録当日だけクライアント企業の人間がわんさか見学に来て、スタジオで映像に合わせて音を聞かせて、背後からOKが出たら、即日終わり。若い頃はそうやって短いものをサクサク量産するのが楽しかった。ギャラも高いしね。
でも、CM曲は基本的にノンクレジットで買い切りだし、人々の記憶に残ることはあっても、記録には残らない。フルサイズのシングル曲を書く仕事の比率を意識的に増やしていったのは、歴史に埋もれて消えていくものだけでなく、クレジットや印税とともに作品の全責任を負う、実績が伴う仕事もしたいな、と考えたから。自分自身が人前に立たずとも、世に出した後まで丸ごとケアできるような仕事がしたいな、と。そのほうが長期的にはビジネスとして安定するしね。時代の流れに対して「今までやってきたことが認められるぞ」という実感があった。そうしてアーティストプロデュースのほうへギアをシフトしていったわけだ。
まずは、平井堅の1stアルバム『un-balanced』かな。当時の俺のサウンドコンセプトが凝縮されている。海外のミュージシャンを日本に呼んでレコーディングするとか、マルチトラックレコーダーを持って行って現地でブラスを録音するとか、20代の頃にアメリカで築いたコネクションが、ようやく活かされたね(笑)。音楽性がまるで違うところでいうと、音楽番組『BreakOut』出身のLastierもそうだね。アルバムまるごと手がけたものでは、聖飢魔IIの『MOVE』もある。単発だと、石井明美の「バラード」は、いい曲書いたよなぁ、屈指の出来栄え、自分でも好きだね。
90年代後半からのプロデュースワークは、俺と鈴川とマニュピレーター【※ハリーさん? 名前を出す?】、各々が得意な分野を任せてスタジオで録る、という流れがあった。名前こそついてないけど、一個のチームみたいなものだったね。鈴木雅之さんとの仕事なんかは、先方から「ジョーさんのコーラス、鈴川さんのギターをバコッと入れてくれ」と明確なリクエストがあった。同じような方向性で、「記憶」と「記録」の両面で商業的に成功したのが、96年の近藤真彦「ミッドナイト・シャッフル」じゃないかな。自分で言うのも何だけど、アレンジが秀逸。THE ALFEEの高見沢俊彦さんが「俺もこういうのやりたかった」と口惜しがっていた、と聞いたのも嬉しかったな。
日本では、ほぼ唯一と言っていいんじゃないかな。歌声をきれいに録るためのボーカルディレクションに加えて、喉や声帯の調子をととのえて、場合によってはセラピストの役割も務めるような存在。海外では、たとえばミック・ジャガーのような大御所にだって、ついているものなんだよ。楽曲にはまったくタッチせず、ボーカルのケアだけしたのは、KATSUMI【※特定のアルバム???】とかね。トータルプロデュースは武部聡志さんで、歌録りだけをうちのスタジオで担当した。
でも俺自身、英語圏で学んできたものだから、じつは「日本語を歌う」ってことを、それまであんまり意識していなかったんだよね。鼻濁音の歌唱法とかさ。だから初期に歌ったものは、日本語詞の発音がちょっとカタコトっぽい(笑)。今は正されましたけどね。メロディーともしっくりくるように、日本語で美しく歌う方法を自分でちゃんと研究し始めたのは、じつは90年代前半から。プロデュース業に移行してからは、書ける機会にはなるべく自分で日本語詞も書くようになった。もともと自分で歌詞を書くことにさほど興味はなかった。まぁ、ライブで忘れちゃうくらいだからさ(笑)。でも結局のところ、トータルプロデュースの楽曲となると、メロディーへの言葉の乗り方まで、自分で見て責任取っておいたほうがいいんだよ。
■「Synchronized Love」からROmanticModeへ
レオタード姿の武富士ダンサーズが激しく踊るCM、知名度が上がると年々エスカレートして豪華になっていったけど、91年にオンエアされた第1作は、それはもう、ショボい作りでね……申し訳ないけど、早く終わってくんないかなぁ、なんて思っていた(笑)。それがまさか、十数年にわたって放映され続ける、あれほどの人気シリーズになるとはね。自分でも把握しきれないくらいバージョン違いを作ったし、最終的には民法全5社を制覇して、一日に100回200回というスケールでかかっていたはずだよ。
そうそう、体育祭で踊りたいとか、フルサイズはないのか、CDはどこで買えるんだ、といった問い合わせが、企業のほうに殺到したらしくってね。Aメロ、Bメロ、間奏のラップなどなど、慌てて後からくっつけて曲にしたんだよ。俺ね、ユーロビートみたいなこういう四分打ち、得意なんだよねぇ〜。はははは。
今はもう、あの武富士ダンサーズのCMは流れていないけどね。曲は一人歩きして、あちこちのコンピレーション盤やゲームにも収録されて、2019年の春には、また新しいコラボレーション企画があるんだよ。もう足掛け30年近く経つ思うと、感慨深いよね。
「それだけしか言えない」は、もともとはドラマ主題歌だったんだけど、こちらも2018年4月から小糸製作所のCMソングとして復活している。曲こそ同じだけど、今流れているのはまったく新しく生まれ変わったバージョンなんだよ。これも「バラード」と並んで、我ながらいい曲だと思う。2019年には新録の再発売が予定されているよ。
これも、感覚としてはプロデュースワークに近いよね。D-Projectは「とにかく、自分たちのやりたいことをやる」というコンセプトで統一されていた。RO-Mについては姿勢がまるで違う。麻倉とは91年くらいからの付き合いで、スマッシュヒットした「ベイビーリップス」のカップリング曲とか、「Time Has No Season」とか何曲か仕事した。ここらでもう一花咲かせようや、と企画が盛り上がり、まず「30万枚のヒット曲を出そう」と始めたプロジェクトだったんだよね。一曲目であっという間に目標達成しちゃったんだけど(笑)。デジタルロックだけどダンスビート、これも日本人の大好きな四分打ち、まぁ、売れますよね。
俺と鈴川は、とにかくすっごく忙しかった時期でね。自然と、彼女一人が出稼ぎに行く、という活動形態になったよね。俺たちはスタジオから一歩も離れられないような日々なんだけど、テレビ越しに麻倉の出演番組をチェックしながら「話し声が低い」「新人っぽく見えない」なんて野次を飛ばしてさ(笑)。日清パワーステーションのワンマンライブも、メンバーなのに、二階の関係者席から観てるだけ。ひどいよな(笑)。
■ムーヴリノイエ所属アーティストたち
ROmantic Modeの三名が一緒にステージに揃ったのも、今回のライブが初めてだったんだよ。歌ってみて改めて思ったけど、「Resolution」も素晴らしい曲だね。よくできてる。同時期に、高山みなみさん、永野椎菜くんとの、II MIX ⊿ DELTAの活動もあったね。もともとの母体であるTWO-MIXが、麻倉晶と所属事務所が同じで、親交があったというのが縁。II MIX ⊿ DELTA自体は2枚で終わっちゃったけど、98年からは俺が声優マネジメントの会社を持つようになったし、アニメやゲームまわりの仕事が多くなっていった。
『ケンイチ』の主題歌は、矢住夏菜、小池ジョアンナなども歌っているね。ムーヴリノイエ所属アーティストとして、デビュー前からの芸能関連マネジメントまですべて含めた、文字通りの意味での「トータル」プロデュースをした新世代アーティストとしては、矢住夏菜と、あとは2007年に「君がいる限り」でデビューしたステファニーかな。
いやー、あの頃に頑張って頑張って、疲れ果てた、力尽きた(笑)。ステファニーはリリースが集中していたし、テレビに出て、ライブもやって、賞も獲って(第49回日本レコード大賞新人賞)、映画『プライド』で満島ひかりとダブル主演したりと、活動が多岐にわたっていたからね。そのすべてをケアして、金の出入りをコントロールしたり、何かトラブルが起きたら火消しに回ったり、すべてのディシジョンメイキングを俺がしていたわけだから。
そりゃあ、親御さんから10代の若いお嬢さんを預かって、うちの子よろしくお願いしますなんて言われて、生き馬の目を抜く芸能界でのすべてを面倒を看るというのは、音楽制作とは全然別のプレッシャーがあって疲れるよ(笑)。森川美穂や麻倉晶なんかと仕事するのとは、全然違うよね。いやー、大変でした。
【※この発言は岡田が勝手に書きました。こんな感じで、2000年代のプロデュースワークを振り返って一言欲しいです。】
【※簡単にご説明いただければ。Twitterアカウント上では「ジョー・リノイエ、ステファニー、矢住夏菜他が所属。」とありますが、おそらくメンバーチェンジしていますよね。】
■社長業について
どうなんだろうね。俺はさ、10歳くらいから家業の手伝いをしてたからね。うちの両親はもともと二人とも教師なんだけど、脱サラして横浜エリアで手広く店舗経営を始めた。小学校の頃から、我が家には大晦日の習慣というのがあってね。当時、横浜中華街に店を持っていたんだけど、大晦日の中華街って、山下公園の年越しの汽笛を聴きにいくお客さんで、すっごく混むわけ。それで夕方16時くらいから深夜まで、一階二階合わせて100席近い中華料理屋が超満員。父が弟と手伝いを率いて調理場を切り盛りして、母と俺とは、たった二人で一晩500人以上の接客をこなすんだよ。全部終わって片付けたら明け方の4時くらいにみんなで家へ帰って、そこからぶっ続けで、親子で正月の麻雀大会。もちろん、勝つとお年玉の金額が上がる仕組み(笑)。子供の頃からずっと、そんな暮らしだったからな。
中学高校生くらいのときかな、小遣い稼ぎにアルバイトをしたいと言ったら親父にきつく止められてさ、代わりに、伊勢佐木町のビルに入っていた40坪くらいの喫茶店、オープン間近の工事現場に連れて行かれて、「おまえにここを任せる」って(笑)。10代の学生だから当然フルコミットはできないけどさ、よそで働くくらいなら親の仕事を手伝えって。どこかに、息子たちに継がせたかった気持ちもあったのかな。経営や会計の基礎、売上の集計管理といった毎日の切り盛りだけじゃなく、営業不振の店をうまいこと畳む手筈なんかも、勉強したんだよね。おかげで今も、税理士と話しているときなんかに数字がスラスラ出てくる。天才的(笑)。
いやいや、でも、プロデュースと経営って、じつによく似ているんだよ。そして俺はとても向いていると思う。世の中には金勘定が苦手な芸術家というのも多いけど、子供の頃から当たり前の感覚で、まったく苦に思わない。91年にスタジオを作ったとき、どうせ人を雇わないといけないんだし、工事をしたり機材を導入したりするのにローンも組むしさ、個人事業主で続けるより、有限会社にしてしまったほうがいいだろう、ということで作ったのがムーヴリノイエの原型。
といっても、90年代は、ほとんど社長業めいたことはしなかったよ。何しろ当時は音楽のほうが忙しかった。ドラマを同じクールで民放5社のうち主題歌3つやって、年に50曲作曲して75曲アレンジして、といった激務が続いた90年代後半あたりからかな、ストレスと寝不足とで徐々に視力が落ちて、それで左目が見えなくなったんだ。今も、頑張りすぎると今度は右目まで見えなくなっちゃうから、やりすぎには気をつけているけどね。
だんだん手広く事業をやるようになって、自分の名前を冠した「ムーヴリノイエ」ですべてを受けるには、ちょっと手狭になったんだよね。たとえば、MISIAのヒット曲「You’re Everything」のレコーディングエンジニアとスタジオ手配、海外ブッキングなどは我が社でやったんだけれども、音楽制作のプロダクションとして「ジョー・リノイエ」が関わっていたわけじゃないしさ。ちょっとややこしいだろう。いろいろなジャンルの仕事を万華鏡のように受けよう、ということでこの社名をつけて、ムーヴと使い分けるようになったのが最初だな。06年以降は、たまたま声優マネジメントに明るいスタッフが入社したこともあって、声優事務所という形態になって現在に至る。そうなるともはや、畑違いの俺が担当するジャンルではないからな、純粋な社長業というか、管理運営業務に近い関わり方になっていったよね。
■ファンとの交流、そして、未来へ
そうだね。もともとテック系のことが好きだからね。90年代半ば頃、割と早いうちから、俺と、マニュピレーターのハリー細谷と一緒に、かなり手作り感あふれる感じで、自分たちで作っていたよ。
俺、もともとそういうの、嫌いじゃないからね。それまではチャンネルがなかっただけ。あと、俺の場合、紙に何か書いたりなんかするより、キーボード打つほうがずっと楽だから。
いやー、あれは聖飢魔II『MOVE』のリリース直後だったから、たぶん悪魔用語じゃないのか(笑)? 山本ケンヤさんが「カニ将軍山本」って呼ばれていたみたいに、「閣下」と「殿」なんだと思うよ。
それはマニアックすぎるだろう(笑)! でも、30周年ライブのときには行き渡らなかった、最新の告知をしっかり掲載していきたいよね。今後も、いろいろな人とライブをやろうという話が進行中。じつは海外からも出演オファーが来ていたりする。28年の沈黙を破って、いきなりライブ本数が増えるかもしれない(笑)。俺自身のソロ活動も、ようやく重い腰をあげてやっていこうかな、というところ。まずはリイシューされる「それだけしか言えない」だね。
プロデューサーとしての活動では、清水信之さんとタッグを組んで「Du-Plex」という活動を始める。これは台湾の音楽シーンに進出するプロジェクトで、そろそろ現地へ偵察に行ってくるつもり。ムーヴリノイエの傘下では、麻倉あきらをはじめとした講師陣を擁したヴォーカルスクール【※正式名称は???】も本格化するね。